ゴマ母仔たち5匹を保護して今日で24年、朝はオムライス、食後にマダちゃんを職場に送り、お迎えがてら渡良瀬川を土手から眺める夕暮れ
2022年 09月 22日
今朝も涼しい、いや、肌寒かったです。
この思慮深くも慎ましやかで繊細な横顔・・・私の最愛の亡きゴマです。可愛過ぎ、いじらし過ぎ。
在りし日のゴマ
「今日はアタシの日らしいわね」
そうです、ゴマちゃん、9月22日はママにとって永遠に貴女の日です。
1999年の今夜、大雨の中で出産していたゴマとその生まれたての4匹の赤ちゃん猫を、横浜の家に連れ帰ったのでした。(→「猫雑記」1999年9月22日)
ゴマは私がエサやりしていた鶴見の野良猫が連れて来た仔猫でした。姿が見えないと思ったら出産してしまっていたのでした。まだ捕獲機も「地域猫」などという概念も、野良猫の避妊についても知らなかった頃でした。
ゴマは鳴きながら、大型車のタイヤの陰から出て来ました。私が雨の中をゴマを探している気配に気づいてすっ飛んで出て来たようです。ゴマは「にゃーん」と一声鳴いただけでしたが、私には「助けて」と聞こえました。
タイヤの陰には、4匹の赤ちゃん猫が固まって置かれていました。ゴマが車の下で産んだのかそこまで運んだのかは解りませんが、仔猫たちはすっかりびしょ濡れで冷たかった。
その後の事は「猫雑記」にある通りです。あの晩、私の濃厚な猫の日々が始まりました。
4匹の小さな悪魔たちは皆、それぞれ里親さんの元に行きました。今思えば、全員手元に置いて育てても良かったくらい、その後私達夫婦は片手間では済まない位に子沢山になったのですが、あの時はそんな心の余裕も準備もなく、里親さん探しをする以外に選択肢はないと思い込んでいたのです。
そもそも、私が長年運営していたホームページは、あの仔猫たちの里親探しの為に作ったものでした。それがあんなに長く続いて、とてつもない怒涛の日々になろうとは想像もしませんでした。
でも濃密な時はどんどん流れ、時代も変わりました。全て、もう昔の事です。残っている1匹ペロを見送ったら、私達の全ての責任は終ります。
ゴマと4匹の娘たちを家に連れ帰ってから家で生まれた5匹めの子は、死産でした。蘇生を試みましたがダメでした。
その晩のうちに夫が桜の根元に埋めてくれました。
私は目が溶けるほど泣いて、そして翌日からは不眠不休の日々が始まったのです。
家に隣接したあの公園の「カワムラさんの桜」の根元には、他にも埋めています。家の猫ではなく、通りすがりの亡くなった野良猫をカワムラさんの懐に抱いて貰うつもりで埋めたのです。
山の中の、あの小さなどん詰まりの隠れ里のような公園は、周囲を戸建て住宅に囲まれた小さな空き地で、ぽっかりと真空地帯のように宅地開発出来ずに残ってしまった結果、横浜市に無期限・無償で貸し出されてた小さな公園になっていた場所でした。
やがて月日が経過して、地主の代替わりの際に横浜市に正式に寄付されましたが、道路が造れない場所であるが故に今後も永久に宅地にはならないようです。だから掘り起こされるような事はないと思いますが、それでも目の前にあってこその「カワムラさんの桜」でした。
あの地を離れる事はその事だけが未練でしたが、いつでも想いを馳せる事は出来ます。私もいつか消滅するのですし、大事なのは生きた記憶と想いだけなのかも知れません。父も母も私達も猫たちも、全て・・・
そしてそういう記憶すらも、最後の1人がいなくなって消えるのです。でも、それで良い、そうでないと地球はオーバーフローしてしまう。
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庭のつる薔薇「ジェームズ・ギャルウェイ」が1輪咲きました。
夏に負ったダメージが今年はあまりにも大きくて、秋の花がどれだけ咲けるかは不安がありますが、来年は早めにミストを使って暑さを凌いでやろうと思います。必要とあればミストの装置をもう1基買いますよ。ええ、群馬がこんなに暑い地域になるとは思いもしませんでしたよ。
全て、一寸先は闇です。
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まあ、明日は朝から天婦羅にしようかという気持ちもあるので、とんでもない年寄りです。もう少し渋い年寄りになりたかった。
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夕方、マダちゃんのお迎えに行く道中、まだ時間が5分くらいあったので、直ぐ近くの渡良瀬川の土手に出てみました。
こちらは予報に反して、夜までは一滴も降りませんでした。
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さて、明日は妹からのプレゼントのチケットで、「シルク・ドゥ・イグニス」を観に行く予定です。いつぞや映像ライブで見た、「トルク・ドゥ・ソレイユ」に14年間いたという奥澤秀人さんたちのパフォーマンスです。
何ヶ月も前から決まっていた事で、まだずっと先だと思っていたら明日に迫っていました。
久し振りです。
当時の建物は老朽化したので平成9年に建て替えられたようですが、昔は「産文」(桐生産業文化会館)と呼びました。
今では「桐生市民文化会館」もしくはネーミング・ライツで「美喜仁桐生文化会館」というそうです。地元の寿司屋「美喜仁」というのは当時からあった寿司屋ですが、あんまり良い響きの言葉ではないなあ(個人の感想です)・・・と今でも思います。
だから今も勝手に「産文」と呼ぶ事にします。「わたらせ渓谷鉄道」をいまだに「足尾線」と呼ぶ私ですから、当然の成り行きです。ホント、すみません。
「産文」の大ホールでは、ピアノの発表会も、桐女の合唱コンクールも、アマチュアや学生の音楽関係の活動の発表にも、様々な歌手のリサイタルも、ちょっと大規模な催し物は大抵そこで開催したものです。
そう言えば、桐女の映画観賞会も当時は数多あった映画館ではなく、このホールで行われました。幾つかあった映画館よりも、観客席がずっと大きなスペースだったせいかも知れません。
兎に角、私にとっては子供時代から馴染みの懐かしい場所なのです。
雨でなければ良かったんだけど、明日は間違いなく降りそうです。
それでも行くぞ、双眼鏡を忘れずに。
by kazue_gomajam
| 2022-09-22 23:59
| 料理・食べる事